遠のく「普通」のすがた
日中国交回復50年目の秋

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国際学部
吉川次郎准教授

 いまから五〇年前の一九七二年九月二十九日、日中共同声明によって、日本と中国は国交を正常化した。それから半世紀、いくつもの波風がたち、紆余曲折はあったものの、日中両国はなお平和のうちに共存してきた。そのこと自体の意義はきわめて大きい。

 半世紀という時間は、現代史において決して短いものではない。たとえば、アジア太平洋戦争を戦っていた一九四五年と、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件の一九九五年とのあいだが、同じ五〇年であることを確認するだけでも、そのへだたりの大きさを想像できる。現在まで続く日中関係は、歴史的な意味をこめて、しばしば「七二年体制」とよばれるが、体制のわく組みはそのままに、中身が大きく変わってしまったとしても当然である。

 歴史の変遷は、筆者のささやかな履歴にもつながっている。一九八九年の天安門事件の二年後に入学した大学で、同じ中国文学専攻を選んだ同級生は、二人しかいなかった(その後、中国経済が発展し、日中関係が深まるにつれて、後輩の人数は増えていった)。世紀が替わる頃、長期留学をしていた南方の都市広州では、街のあちこちで再開発が行われ、土ぼこりと喧騒のなかに、何とも表現しがたい熱気と、そして自由な雰囲気を感じた。

 上海万博が開かれた二〇一〇年からの十年間、筆者は毎年秋に、中国へ留学する学生の引率をしていた。尖閣諸島(中国名釣魚島)国有化にともなう反日デモの影響が心配な年もあったが、どの年も送り出した学生たちのほとんどが、現地の友達をつくり、肯定的・批判的なものをふくめて、中国への認識を新たにしていったことがうれしかった。

 この十年間は、上海など大都市に長期滞在する日本人が増え、また中国の多くの人々が個人旅行などをつうじて、おそらくはもっともリアルに、日本社会にふれた時期でもあった。

 近年、日本の対中国イメージは最低の水準にあるという。尖閣や南シナ海をめぐる動向、ウイグル・香港・台湾の問題、米中対立、中国国内の統制強化など、あくまで日本側からその要因をさぐれば、枚挙にいとまがない。さらに、新型コロナウィルスの流行により、お互いの普通の暮らしに直接ふれ、相手の息づかいや感覚、意見を知る機会そのものが減少した。

 国交正常化当時の中国は、文化大革命のさなかで、日本との人の行き来はきわめて限られたものだった。当初の日本にあった、ポジティブな「日中友好」イメージにしても、かつての戦争への反省とともに、遠く離れているからこそ、いっそう増幅された面があろう。

 これから十月の共産党大会にむけて、習近平国家主席の異例の三期目続投をめぐるニュースが、さらに注目を集めるはずだ。いま、コロナ禍で再び開いた距離感によって、「普通」の欠落した異形の大国というネガティブな中国イメージが、実態以上に増幅されてはいないか。一九七二年九月に生まれた一人として、日中関係の今後が気になる五〇年目の秋である。

【略歴】
吉川 次郎 (よしかわ・じろう)。
中京大学国際学部准教授。
中国近代思想史。
東京都立大学大学院博士課程を単位取得の上退学、博士(文学)。
1972年生まれ。

  

2022/09/30

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