感染症の歴史から学ぶ
「衛生組合」という相互扶助の仕組み

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法学部
鈴木 哲造 講師

 近代日本の歩みは、感染症との闘いの軌跡であった。明治の幕開けは、感染症の来襲とともに始まる。コレラ、赤痢、腸チフスなどの急性感染症は、文明開化の潮にのり、大波となって日本をのみ込んだ。特に、コレラは、明治年間を通じて大流行を断続的に繰り返し、三七万人もの死者をもたらした。これらの感染症に対する予防体制は、明治三〇年公布の「伝染病予防法」(以下、法とする。)により確立した。法は、平成一一年施行の「感染症法」により廃止されるまで、実に一〇〇年以上にわたり日本の感染症予防体制の根幹をなした法律であった。

 戦前期における法体制の特徴は、市町村吏員の指揮のもとで、感染症予防の第一義的な責任を個人に負わせたことと、府県警察部長より末端までつながる警察指揮系統をもって当該感染症予防事務の執行を監督させたことにある。感染症患者が発生した場合、患家は医師の診察を受けさせる義務と、家宅内の掃除及び消毒の執行義務を負い、患者は隔離病舎に送致された。患家及び周辺地域は、必要に応じて、警察官吏の職権をもって「交通遮断」された。しかし、患家の負担する掃除や消毒の執行義務は、個人の独力では対応しきれない場合がある。そこで、法は、市町村と個人との間を仲立ちし、感染症予防事務を補完する組織として「衛生組合」の設置を明文化した。

 衛生組合は、戦前期の地方衛生行政の拠点であった。愛知県西加茂郡三好村(現・みよし市)の黒笹地区を事例として、衛生組合の活動を垣間見てみよう。黒笹地区の衛生組合規約が認可されたのは明治三二年のことであった。規約によれば、衛生組合は、黒笹地区のすべての住民で組織され、組合員が活動費を負担し、選挙により組合長などの役員を選出する「自治組織」であった。組合の事業として、例えば、①井戸、下水、厠、ゴミ溜などの大掃除を年二回実施すること、②衛生思想普及のための「衛生講話会」を年二回開催すること、③感染症流行時において患家の掃除及び消毒を実施すること、④交通遮断された患家の農作業を代行することなどがあった。実際上、明治四四年九月より一〇月にかけて黒笹地区に赤痢が流行し、疑似症を含む患者八人うち二人が死亡した際には、組合員が動員され、患家の掃除及び消毒、患者の隔離病舎への移送と看護及び必要物資の調達などに従事している。衛生組合長ら役員は毎日出務し、三好村長も臨場しており、まさに村全体で感染症対策にあたっていた。

 新型コロナウイルス感染症の流行は、誤った理解による差別や偏見、患者や患者家族の孤立化といった問題を顕在化させた。この問題の解決の糸口は、地方自治体と地域コミュニティとの連携強化と、感染症を個人の問題にとどまらず地域コミュニティの問題と捉える意識の醸成にあるのではないか。かつて衛生組合を通じて形成された地域の連帯感は、地域コミュニティの感染症対策への関わり方に示唆を与えてくれる。

【略歴】
鈴木 哲造 (すずき・てつぞう)。
中京大学 法学部講師。
日本近現代史、台湾史。
国立台湾師範大学歴史学系博士課程修了。文学博士。
1980年生まれ。



  

2022/06/22

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