時代は感情を求める?
「エモい」ブームに思う

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長滝 祥司教授

 古代ギリシャより、「精神と身体」、「理性と感情」といった対概念が、人間というものを理解するための枠組みとして用いられてきた。とくに古(いにしえ)の哲学者たちは、精神や理性を人間の本質だと考える傾向があった。プラトンなどはその典型である。身体やそれに由来する欲望や感情を取り去ることで、人間は完全な存在、純粋な精神になれる。こうした人間理解は、精神の不死を説いた近代のデカルトにおいて、ひとつの極に達する。

 時代は下り二一世紀の現在、人文科学や社会科学、脳科学を始めとする自然科学では、身体と感情が研究の主役になりつつある。また世間に眼をむけてみると、ここ数年、感情に深い関係のある若者言葉が流行していることに気づく。たとえば、「エモい」という言葉がそうだ。この「エモい」自体、一○年以上まえから使われていたが、「今年の新語 2016」で二位になったことをきっかけに、人口に膾炙するようになった。

 語源については、音楽ジャンルの「イーモウ」(Emo)に由来するとか、「えもいわれぬ」から派生したという説がある。ただ、いまの使われ方からすれば、「エモーション」と関係があると解していいだろう。英語の「エモーション」は、一七世紀初頭に仏語から輸入され、一七世紀から一八世紀にかけて使われていたが、心的状態を表現する概念として定着したのは、一九世紀半ばのことである。仏語でも英語でも、もとは、物理的、身体的な動きや揺れを表現する概念であった。

 「エモーション」がある程度、学術的に定義された概念であるのに対し、「エモい」は、ややつかみ所のない言葉である。ネットで検索してみると、心を動かされる、情緒的、懐かしい、ノスタルジックなど、その意味は極めて多様である。すでに市民権を得ている、「ヤバい」と似た意味で使われることもあるようだ。また、「エモい」はいろいろな商品に、付加価値を与える機能もあるらしい。音楽がその代表例であろう。「...はエモいよね」と言うだけで、なにかそこに意味や価値があるかのようである。

 だが、言葉を身体感覚で使うこうした傾向は、理性や精神を軽んじることになりはしないか。個人的には、こんな危惧を覚えてしまう。言葉にこだわって、深く論理的に考えることを放棄した人々が、「エモいよね」という一言で、何でもやり過ごしてしまう。それをみんなが許容する。

 身体や感情に偏った人々が、こんな風に社会の雰囲気を作っていることに、底知れぬ恐怖を禁じ得ない。「時代錯誤もはなはだしい。世の中はスピード感をもって動いている。立ち止まって考えていたら、時代に取り残されるのだ」―――こんな批判が返ってくるかもしれない。「あえて論理(ロゴス)にこだわりたい」というのは、もう若くはない私の繰り言だろうか。

長滝祥司(ながたき しょうじ) 中京大学国際学部教授
東北大学大学院修了 博士(文学)
哲学・認知科学
1964年生まれ

2021/03/31

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