家族は万能でなくてよい
「ポテサラ論争」の是非

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野口 典子 教授

 「ポテトサラダ」を巡ってある論争が勃発した。「ポテトサラダ」(ポテサラ)、だれもが知っていてよく食するものを巡ってのことである。「あなたはポテサラを買いますか」それとも「自宅で作りますか」ということなのであるが、これがあることを象徴しているのである。

 ことの発端は、スーパーで買い物中の高齢男性が幼児連れの女性に向かって「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言ったことからである。言われた女性は、惣菜パックを手にして俯いたままであった。その光景を脇で見ていた別の女性が男性のこの言動が理不尽なこととツイートし、炎上したのである。

 1978年の厚生白書(当時)は、戦後の日本の社会保障・社会福祉の制度設計は、西欧社会に遜色のないものである。しかしながら、これからの高齢社会の到来に対して、「同居の家族を「福祉における含み資産」として制度に生かす」という方向で設計していくべきであるとしたのである。これが、その後の日本型福祉社会論の基本になったのである。

 ポテサラ論争と日本型福祉社会論が、どのように繋がっているのかである。

 食事の支度などの家事や育児、介護は、家事の担い手である主婦≒女性が行う。その際、主婦(若い世代では分業が進んではきているが)は家事や育児、介護について万能でなければならない。ポテサラのような家庭の味をスーパーやコンビニの惣菜として購入するという形で代替するのは、家庭を預かるものとしては"敗北"であるという考え方である。育児も、介護もしかりである。

 現在の日本では、老親に介護が必要になると、家族のだれかが「介護者」になり、ほぼ全面的に介護を担うのである。そうした現状を作り上げた一端としての日本型福祉社会論は、老親介護は家族が担うべきであり、公的介護サービスはそれを補助し、補完するというのが基本路線なのである。

 では、日本の家族はそれほど万能なのであろうか。

 1950年代、電化製品の三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ(白黒))が家庭に入り、「もはや戦後ではない」としたわが国は、こうした家電の普及により、主婦を家事から解放しようとしてきた。それは主婦の家事を軽減するだけでなく、生活の外部化により、日常生活部分をサービス化し、内需を拡大してきた。

 家事の合理化が進み、家事に費やす時間は、確かに軽減してきている。しかし、ポテサラ論争のように、実は、家族=家庭への無言の圧力はより強くなってきているのではないだろうか。手作りの食事が主婦の誇りとなり、家族による介護が美徳となるということが、社会の根底にあるということである。

 公的介護保険制度は「介護の社会化」の実現のための制度であり、家族に起こる介護というリスクを社会全体で担っていくという宣言ではなかったのではないだろうか。リスクは社会全体で、平等に担うものであり、その結果として、国が言う「地域共生社会」は実現していくのではないだろうか。

野口 典子(のぐち のりこ)中京大学現代社会学部教授
社会福祉学、高齢者福祉
日本福祉大学大学院社会福祉学研究科博士後期課程
博士(社会福祉学)
1951年生まれ

2020/10/16

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