布施がつくる社会
宗教・共生・グローバル化

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岡部 真由美 准教授

 

 東南アジアのタイは、日本からも、ビジネス、観光、ロングステイなど、さまざまな目的で渡航する人が多い国の一つである。日本語でアクセスできるタイ情報も氾濫している。それゆえ実際にタイに渡航しても、さほど「異文化」を感じない人もいることだろう。「仏教の人類学」の研究を志して以来、約15年間にわたって私は何度もタイに渡航しているが、フィールドワークに不可欠な「異文化」を嗅ぎわける感覚がときに鈍ってくることがある。

 しかし、この国の仏教を取り巻く人びとのエネルギーには、今なお圧倒される。政治面では先の見えない状態が続き、人びとは社会不安を口にするものの、経済面では確実に発展を遂げてきた。都市の再開発と消費ブームが広がりを見せるなか、無数にある寺院や仏塔が次々と再建され、一段と輝きを増すようになった。また、外見だけでなく、寺院内部には仏像、護符、僧衣、食料品、日用品、車、コンピューターなど、モノというモノで埋め尽くされている。とてもバブリーな空間である。一部の富裕層に加えて、都市中間層もまた、持てるモノやカネあるいは時間や労力を、仏教に注ぎ込んでいるからだ。

 東南アジア大陸部、西南中国およびスリランカを中心に広く信仰されている上座仏教社会では、出家者は、戒と律を遵守することによって、在家者とは明確に区別される。出家という生き方は、教義上の理想の境地すなわち涅槃に到達するための、唯一ではないものの、最適な手段である。律によって一切の生産活動が禁じられる出家者の生活を、あらゆる面で支えてきたのは在家者からの布施(ダーナ)だった。

 布施とは、持てる財を手放し、出家者や貧窮者らに施しを与えることである。その果報として生じるのが功徳である。人びとは、功徳の多寡が現世ないし来世における幸福を左右すると信じているから、こぞって布施をおこない、よりよく功徳を積むことに励むのである。

 マルセル・モースは『贈与論』において、贈与には三つの義務、すなわち贈る義務、受け取る義務、そして返礼する義務があると論じた。だが、上座仏教における布施は、この枠組みには収まらないものである。なぜなら布施は、受け手にとっては返礼の義務がなく、また与え手にとっては返礼を期待しない一方的な贈与だからである。しかし、こうした一方的な贈与によって集積するモノやカネは、出家者と在家者のあいだの顔の見える関係を超えて、持つ者と持たざる者の顔の見えない関係にまで広がっていく。そのなかで、寺院は、孤児、乞食、浮浪者や障害者などを受け入れる「庇護の空間」として編成されていった。

 都市中間層らの消費が可能になっているのは、近隣国から大量の越境労働者が流入しているからである。タイ政府は、1992年に近隣3 国(カンボジア、ミャンマー、ラオス)からの労働者の受け入れを開始し、2011年にはその数は約200万人に到達した(うち約80%がミャンマー)。しかしタイ国籍を持たない彼らは十分な社会保障を受けられず、子育ての負担を軽減したいといった理由から、子どもを見習い僧として出家させたり、寺子として寺院に預けたり、家族で住み着いてしまったりするケースもある。

 急速なグローバル化が進むなかで、どの社会においても、持つ者と持たざる者のあいだの格差は拡大し、不均衡な関係が再生産されている。布施がつくる社会が示す、こうした「バッファー」には、グローバル化のなかで多様な背景をもつ人びとが共生していくための鍵が隠されているのではないだろうか。

岡部真由美(おかべ まゆみ)中京大学現代社会学部 准教授

文化人類学。
総合研究大学院大学文化科学研究科単位取得満期退学。
1978年生まれ。

2019/09/11

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