ネット社会の不易と流行
加藤 晴明 現代社会学部教授

加藤晴明教授
加藤教授

 2010年代になってSNSやつぶやき系メディア(ツイッターなど)が社会のコミュニケーションインフラとして注目を浴びつづけている。「総表現社会」という言葉や、マスメディアとネットの融合を表す「複合メディア社会」といった言葉もしばしば使わる。ネット社会では、「表現」「複合」「つながり」が、大きなキーワードであり、さらに情報が瞬時に伝播する「拡散力」や人の「動員力」に注目が集まり、いまや企業のマーケティングにも使われ出している。

 ネット社会を研究してきた第1世代として、この30年近くメディアに媒介される人々のコミュニケーションと向き合ってきた。パソコン通信のような牧歌的な時代から、大手商用パソコン通信へ、そして1995年以降はインターネットへ、さらに、2000年代に入り、匿名巨大掲示板やソーシャルメディアへと舞台は変わってきた。そのソーシャルメディアも、かつて隆盛を誇った日本型と言われたSNSがあっという間に陰りをみせ、フェイスブックやLINEといった新しい舞台が台頭し、利用者が移住しつつある。

 そうした変化を追いつつ、いつも思うのは、何が新しい経験なのかという根源的な問いの大切さだ。ネットには、情報を検索したり買い物をするという意味での「道具としてのネット」の側面と、ネットでつながること自体を享受する「楽しみとしてのネット」の側面、さらには他人のメッセージに支えられたり励まされたりする「救いとしてのネット」の側面がある。私は、これらを、ネットコミュニケーションの3元図式と名づけている。

 特に、3番目の要素は大切である。熱心なネットユーザーにインタビューすると必ず返ってくる返事が、ネット内の自分こそが「ほんとうの私」だという答えだ。この答え方だけは、30年間変わらない。人は、ネットによって姿形から解放されるとともに、どこの誰という社会的立場からも自由になることができる。この解放感覚は、ネット内でのメッセージによって元気をもらったり、励まされたり、立ち直ったりすることで得られる「ほんとうの私」の世界という感覚ともむすびつく。

 だが他方で、自分にとって居心地のよい「安心・安全・アットホーム」な世界をネットの中につくり、「いいね」とコメントしてくれる人だけの狭いムラに自閉して暮らすこともできる。自分と同じ意見だけしか見ないで「ネットでみんな言っているから」と信じ、異質な他者を排除することも簡単だ。モニター上の文字は、相手への妄想の肥大も生みがちである。そこにネット的なリアリティが抱える構造的な落とし穴があるといえる。

 ネット社会の進展に逆行するように、最近ではライブ空間や音楽フェスや街コンといった、物理的な身体や場所を伴うリアリティへの希求も強くなってきている。そのバランス感覚はとてもよいことだ。いま、私たちには、ネットを駆使しながらも、ネットに過度に依存しない、ネット的現実と物理的・制度的現実という「二世界」を相互補完的に捉えていくハイブリッドな生き方が求められているといえよう。


【略 歴】
加藤 晴明(かとう はるひろ)・中京大学現代社会学部教授
メディア社会学・マスコミ学
法政大学大学院博士課程
1952年6月6日生まれ

2013/02/18

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