音が紡ぐウェルビーイング ASMRと音嫌悪症

 私たちの日常は、絶え間ない音に包まれている。音楽の旋律に心を動かされる一方で、室内外の騒音に悩まされることもある。このような音の体験は心身にどのような影響を及ぼすのだろうか。近年、聴覚科学の分野で注目されているのがASMR(自律感覚絶頂反応)と音嫌悪症(ミソフォニア)である。

 ASMRとは、ささやき声やタッピング音などをきっかけに、頭皮や耳元、背筋にゾクゾクとした心地よい感覚が生じる現象である。動画共有サイトでは多くのASMR動画が人気を集めており、リラクゼーションや睡眠導入に利用するユーザーも増えている。都市化やデジタル化で感覚が過剰に刺激される現代社会にあって、癒やしや安らぎを求めるニーズが高まっているのかもしれない。実際、筆者が国際学会でASMR研究を発表したとき、米国国立衛生研究所(NIH)の担当者から「歯科治療に活用できないか」との提案を受けた。不安を感じている子どもをリラックスさせる効果が期待されたのである。

 音嫌悪症は、咀嚼(そしゃく)音や呼吸音といった他者が発する音によって、強い不快感や怒りまでも惹起される症状である。重度になると、学校や職場での人間関係に悪影響を及ぼし、社会参加も困難となってしまう。世界的に見ても、特定の音に過敏に反応する仕組みはまだ十分に解明されておらず、診断基準や治療法の確立が急務とされている。

 両者の反応は対照的だが、共通する側面もある。いずれも、音が情動を揺さぶるという点である。ASMRの心地よさも、音嫌悪症の不快感も、脳内の島皮質が関与していると考えられている。この脳部位は五感を身体感覚や情動と結びつける役割を担っており、音が単なる物理的な刺激ではなく、感情的・社会的な意味を帯びて処理されることを示している。すなわち、音は情報である以上に、こころとからだをつなぐ鍵なのである。我々は、ASMRや音嫌悪症の原因となる音響的特徴の解明に取り組んでいる。それが明らかになれば、不快な音を逆に「心地よい音」へと変換する技術の開発につながるかもしれない。

 経済的な視点からも、この知見は示唆的である。ASMRを活用した商品やサービスは、ストレス社会における新しいウェルビーイング産業の一翼を担う可能性がある。また、音嫌悪症に苦しむ人々への社会的な支援や音環境の整備は、多様な人材が安心して活躍できる持続可能な社会を築くうえで欠かせない。このような背景を踏まえると、聴覚科学はリラクゼーション市場やメンタルヘルス産業に対して、快適な音環境を設計するための有益な知見を提供しうる。

 感覚情報は私たちの生活基盤を形づくる要素である。音に敏感であることは弱さではなく、より豊かな人間らしさの表れでもある。日常のなかで自らの感覚に耳を澄まし、そこから新しい価値を見出すことこそが、これからの社会に求められるウェルビーイングの出発点になるのではないだろうか。

【略歴】

名前:近藤 洋史

中京大学心理学部教授

専門分野:実験心理学、認知神経科学

最終学歴:京都大学大学院文学研究科博士後期課程学修退学・博士(文学)。

心理近藤_顔写真.jpg

2025/10/01

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