大学の新自由主義化という病
学問と自由の行く末

 日本の大学は少子化で数が減少し,年内入試が半数を超える一方で,学生の就職活動が早期化し,「学問をする場所としての大学の存在価値」が揺らいでいると言っても過言ではない。問題の根幹の一つが年々進む大学の「新自由主義化」である。政治理論家のウェンディ・ブラウンによれば,新自由主義化とは資本主義的合理性や価値観が経済だけでなく全社会的領域に浸透しているような状況を示す。新自由主義化した大学において,学生は「消費者」的行動に徹し,最小の努力でコスパよく単位を取得し,実務的な資格につながる勉強のみを行い,「従順な労働者」として就職することを「唯一の価値」としている。

 「学ぶ」という行為は本来お金や目にみえる形には還元できないモノなのであるが,現在の大学,そして学生はそういった「学問」を「価値」のないものとして排除する方向に向かっている。「学問」とは本来的に「コスパ」が悪いものである。なぜなら学問の意義とは人間としての成長であり,それは即時的に効果は得られず,かつ可視化されうるものではないからである。学問の意義とは自己の成長・変化に喜びを感じながら,視点の多様性と批判的判断力を育て,現在より「自由」になることであり,決して人よりお金を稼いだり,就職をすることにあるのではない。新自由主義化の大学で失われているものは学生がより「自由」に生きるための成長の機会である。この状況をイデオロギー的に下支えしているのが,日本社会における年齢による「呪い」と大学偏差値という「身分制度」である。

 年齢というの「呪い」は,「18歳で大学に入学し,22歳で就職をする」というイデオロギーに端的に現れている。人間は年齢に囚われず,学び続けなくてはいけないと同時に,どんな年齢になっても新しいことに挑戦することは可能なはずである。

 ではなぜこの社会では年齢による学びの制限をここまでかけてしまうのであろうか?(最近ではリスキリングという言葉が出始めてきた一方で,新たに学ぶことに対する労働者の意識は他国と比べても圧倒的に低い。)この点については,偏差値という空虚な記号が18歳以上の人口を新たな「身分制」へと再編している事実について考える必要がある。何を学んだのか,どのように成長したのかではなくて,どこで学んだのかを重視してしまう日本社会において,偏差値は18歳以上の人々の社会的価値を固定化し,その後の人生に常に影響を与えるような「身分制」を構築している。これはあまりにも奇妙である。例えばアメリカにおいては,18歳からの学びが最も重視され,また何歳になっても大学に入学し勉強することを積極的に肯定する価値観がある。 

 要するに,年齢による「呪い」と偏差値という「身分制度」は人々の学びそして成長の可能性を否定しつつ,人々を序列化し続けてきたのであるが,それは従順で身分化された労働者(=学生)を供給するという大学―産業資本連合の目的に合致するものである。大学が本来的な役割を取り戻すためには,学生一人一人が社会の規範に疑問を感じ,「無駄」と価値づけられた学問(特に哲学や歴史)に身を投じ,自分なりの「自由」を探すための能力を身につける場所として自身を再定義しなければならない。

【略歴】

名前:寺岡 知紀(てらおか とものり)

中京大学法学部講師

専門分野:政治思想史,近代東アジア史

最終学歴:The University of Pittsburgh (Ph.D.)

2025/02/10

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