不登校をめぐる支援と懸念
「権利としての学び」再考

 今年10月に文部科学省が公表した調査結果によれば、2015年以降、日本で「不登校」(年間30日以上の欠席)とされた小中学生の数は増えており、昨年度は過去最多(約34万人)となった。

 こうした事態を打開すべく、16年に成立した「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」は、さまざまな事情・背景により、長期間学校を休む「不登校児童生徒等」の教育機会を保障するため、学校現場の環境改善と同時に、学校と外部の機関・施設の連携を図るものとして、その運用が期待されている。たとえば、今年8月に文科省から全国の都道府県教委などに出された通知によれば、長期欠席中の子どもが家庭や学校外の施設で行った学習活動を、学校での成績に反映することができる(「不登校児童生徒が欠席中に行った学習の成果に係る成績評価について(通知)」)。

 また、地方自治体の施策では、保護者への財政支援が進み始めている。一例をあげると、私の勤務先がある愛知県豊田市では、今年から「フリースクール等利用支援補助金交付制度」が始まり、所得制限が課されているものの、「不登校児童生徒への支援・相談」を行う施設などを利用する子どもの保護者は、その利用料などについて、月額2万円(子ども一人あたり)まで補助を受けられる。

 これらを見ると、長期欠席者には喜ばしい方向に進んでいるようだが、懸念もある。それは、従来の支援策には、一部の政治家や研究者により、社会的投資の観点から肯定する意見が出されており、今後もこの動向は続くと考えられる点だ。つまり、ここで主張されているのは、有用な人材になるためにこそ、学校を休む子らの教育機会は保障されるべきという論理であり、裏を返せば、将来に十分なリターンが得られる見込みがないと、その機会は認められないという損得勘定である。

 このような意見が出される背景として、働き手不足が深刻化している日本の現状があるのは間違いない。だが、そこでは「権利としての学び」という重要な視点が見落とされてしまう。すなわち、学びとは、社会的に有用な存在になるための行為であると同時に、そもそも「有用性の意味や学校の役割とは何か」を問うたり、それ自体が「楽しみ」であったりするような、個人の尊厳や社会生活の基盤として公的に保障されるべき行為だという視点である。短期的な成果を求められず、学習者に意見表明や遊びの機会が承認されて初めて、昨今の政財界で称揚される「イノベーション」も生まれるのではないだろうか。

 この意味で、来年採択後40周年を迎える「ユネスコ学習権宣言」の次の一文は、不登校の文脈に限らず、何が子どもの権利であるかを再考する際のヒントとなると思われるため、ここに引いて拙稿の結びとしたい。「学習権とは、読み書きの権利であり、問い思考する権利であり、想像し創造する権利であり、自らの世界を読み解き、歴史を綴る権利である」(筆者訳)。

【略歴】

名前:森田 次朗(もりた じろう) 

中京大学現代社会学部准教授

専門分野:社会学(教育・福祉)、生涯学習論

最終学歴:京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学 博士(文学)

【顔写真】現代社会学部_森田先生.jpg

2024/12/12

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