AI時代に求められるフロネシス
実践を通した問いと判断力の育成
私の所属する中京大学大学院スポーツ科学研究科において、「Evidence-Based Practice(EBP)研究」という科目を立ち上げてから3年が経過しました。EBPは一般に「根拠に基づいた実践」と訳されますが、これは単に最新の科学的根拠(エビデンス)に従うことを意味するものではありません。EBPとは、「科学的根拠」に加えて、「専門家としての知識や技術」、そして「目の前にいる対象者の価値観や状況」という三つの要素を統合し、その状況における最適な意思決定を目指す考え方や態度です。
近年、人工知能(AI)や計測技術の進歩により、スポーツ現場ではかつてないほど多くの情報が得られるようになりました。しかし、それらの情報をどのように解釈し、実践に結びつけるべきかについては、必ずしも明確な答えが存在するわけではありません。データを重要な根拠としながらも、目の前の選手が置かれた固有の状況や文脈を踏まえて判断する。この一見シンプルでありながらも難解な実践的判断の在り方を考える上で、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが説いた「フロネシス(実践知)」は、有効な示唆を与えてくれます。
アリストテレスは「弁論術」において、人を納得へと導くためには「ロゴス(論理)」「エトス(信頼)」「パトス(共感)」の三要素が必要であると説きました。これをEBPに照らせば、科学的根拠はロゴス、専門家としての知識や技術はエトス、そして対象者の価値観や状況への寄り添いはパトスに、それぞれ対応づけて捉えることができます。
実践知であるフロネシスとは、これら三要素を、今、目の前にいる「この人」のために適切なバランスで統合し、具体的な行動へと結びつける力です。この点は、三要素を一つの知恵として統合し、血の通った判断を下すというEBPが最も重視する考え方と重なります。
AIが提示できるのは、主として論理(ロゴス)の側面に限られます。たとえデータが正しくても、そこに信頼(エトス)や共感(パトス)が伴わなければ、相手の行動や心を動かすことはできません。
経営学の大家である野中郁次郎氏は、著書「ワイズ・カンパニー」の中で、フロネシスを「何をなすべきかを知る力」と位置づけています。これは、単なる技術の習熟や効率性の追求にとどまらず、流動的な状況の本質を見極め、価値ある行為を選び取るための判断力を意味します。この視点は、スポーツ現場における意思決定にも深く通じるものです。
フロネシスは、知識の量を増やすことで自動的に身につくものではありません。むしろ、「この知見は、今、目の前にいる選手にとって本当に適切なのか」と実践の中で問い続ける営みを通して、失敗や葛藤、対話を重ねながら、徐々に形成されていくものです。
AIが即座に「答え」を提示してくれる現代だからこそ、あえて立ち止まり、考え抜く姿勢が求められています。私は、その不器用で、しかしきわめて哲学的なプロセスの中にこそ、人間ならではの価値と高度な専門性が宿ると信じています。
【略歴】
篠原 純司(しのはら じゅんじ)
中京大学スポーツ科学部スポーツ科学研究科教授
専門分野:アスレティックトレーニング、運動科学
最終学歴:米トレド大学大学院 博士課程 修了(Ph.D. in Exercise Science)
西暦生年:1976年生まれ