【プレスリリース】失敗できない時の心理を動作のエントロピーを計算することから情報理論を用いて定量化

研究成果のポイント

  • 本研究では、心理的なプレッシャーが運動にどのような影響を与えるかについて明らかにした。
  • 本研究では、今まで10ビット/秒と考えられてきた人間の運動中の情報処理量が、時事刻々と変化するものであることを明らかにし、更にその変化過程を定量的に示すことに成功した。
  • 本研究によって、客観的に捉えることが難しいとされていた心理状態の変化を、上記変化から算出される情報処理量として捉えることができるようになった。
  • 本研究はスポーツのアスリートたちの、心理状態とパフォーマンス変化の背景にあるメカニズムを解明するアプローチとして期待される。
  • 中京大学大学院スポーツ科学研究科院生(村上宏樹)とスポーツ科学部教授(山田憲政)の共同研究
  • 論文は「Entropy」誌にて2022年6月7日より公開中。

背景

 約半世紀前にクロード・シャノンはそれまで曖昧な概念だった「情報」について定量的に扱える情報理論を創始し、情報量の単位としてビットを定義した。直ぐにフィッツ、ミラーと言った心理学者が、この理論は人間の心理を解明するための理論となり得ると考え、コミュニケーションや運動の制御で生じる心的過程を情報処理過程として定量化し心理学が革新的に発展した。特にフィッツは、様々な2つの目標を連続して正確に、そしてできるだけ早くペンでタッピングするという独自な実験を考え、その目標の大きさと目標間の距離から運動の難易度を導きそれをビットを用いて定義した。そして、それが増加するほど運動時間が直線的に増加することを発見し、その直線の傾きから人間は運動中に10ビット/秒の情報処理をしていると画期的な結論を導いた。しかしフィッツの実験では目標でのペンのタッピング位置が4%程度のミスが発生していた。さらに、人間の情報処理量が1秒あたりのビットという独特な単位で導かれたという2つの問題があった

さて、スポーツの試合で選手は、失敗できないという心理状態になる傾向がある。その心の変化は動きの精度を上げることに相当する。つまり、運動の難易度を自ら上げてしまうと言える。試合でその様な心理状態になった結果、普段通りの動きが出来ないことがしばしば観察される。本研究は、この心理と動きの変化に、フィッツの実験における上記の2つの問題を解決することから情報理論を用いてアプローチしようとした。

  

概要

 上記の2つの問題を解決し、失敗できない状況で運動の難易度を上げた時の心と動きの変化を情報理論を用いて定量化し、選手の失敗できない心理に情報理論を用いてアプローチしようとしたのが本研究である。まず、最初の問題に関しては、フィッツの実験における目標を平面から台に変えることでペンをタップする際のミスが認識しやすい状態にした。実際に実験ではこれによってミスを0%に制御することができた。さらに、2つ目の問題に関しては、実験中のペンの往復する複数軌道を高速度カメラで撮影し時事刻々と変化する3D座標を取得した。そして複数軌道に任意の区間を設けて、その区間における軌道のばらつきを空間に設定した細かな格子状(図1)のどの部分に入るかの確率の値を求め、その値から算出されるエントロピー、および相互情報量として定量化することで、その値の変化からペンの動きで処理される情報処理量を推定した。

 これらのことから、失敗できない環境で運動の難易度を変化させた際の情報処理の特徴を導くことに成功した。

研究方法

 本研究の課題は、フィッツが用いた2つの目標の交互タップ実験を採用した。対象者はペンで2つの目標をできるだけ早く正確に15秒間交互にタップすることが求められた。この際、目標の大きさと目標間の距離から決定される課題の難易度を、低難易度と高難易度の2条件でそれぞれを100試技ずつ行った。試技中のペン先の3D座標は高速度カメラを用いて200Hzで取得した(実験概念図:図1)。

 分析方法は、まず実験が行われた空間にコンピュータ上で仮想の細かな格子(目標のサイズに準拠した1辺15mmの立方体)を設定し(図1拡大部分)、さらにペン先の複数軌道を11の区間に分離した。そして、ペン先の3D座標が時事刻々どの格子に入るかを特定した。このことから、各格子に入る確率を区間毎に計算し、その値から情報エントロピーと区間間の相互情報量を求めた。さらに、その値の変化からペンの動きを制御する時の情報処理量を推定した。

研究成果

 各区間で得られた確率から情報エントロピーを算出した結果、条件間の違いが明確になった(図2)。高難易度の試技ではエントロピーが軌道の開始点から増加し、中間点で最大となり、終点に向かって減少するのに対して、低難易度では、軌跡の開始点から終点まで大きな変化はなくわずかな変動にとどまっていることが分かった。続いて、区間間の相互情報量を計算した。この値から区間間でどれだけの情報が処理されたかを定量化することができる。その結果、高難易度の方が低難易度よりも全体の値が高くなった(図3)。

 これらのことから課題の難易度を上げると動きのエントロピーが増大し情報処理量も増大すると言える。つまり、上記で挙げた失敗できないという心の変化は、情報処理量の増大で定量化できたと言え、その時の動きの変化は、エントロピーの増大で定量化できたと言える。

 確率から定義される情報エントロピーは、人間の情報処理モデルにおける情報量に相当する関数的尺度であり、物理システムにおける不確実性、無秩序、変動性を推測するために用いられている。しかし情報理論から発展したフィッツの実験では、実際の運動からこの情報エントロピーは計算されず、運動難易度の増加に伴い運動時間が直線的に増加するという実験結果から得られた直線の傾きから、間接的に人間の情報処理量を推定した。これに対して本研究は、運動中の時事刻々の情報エントロピーを求め、その変化過程から情報量を定量的に計算することに成功した。

今後の期待 展望

本研究は、運動中の「心」と「動き」の変化を、動きの軌道から情報理論を用いて検討できる可能性を示した。さらに、約半世紀前にフィッツが推定した人間の運動中の情報処理量は、これまでおよそ10ビット/秒と考えられてきたが、今回の研究でそれは時事刻々変化するものであり、その変化過程を定量的に示すことに成功した。これらの成果は、客観的に捉えることが難しい心理状態の変化を時事刻々と変化する動きの変化から算出される情報処理量として捉えることができるため、スポーツのアスリートたちのパフォーマンス変化の背景にあるメカニズムを解明するアプローチとして期待される。

fig1.jpg

図1:実験概念図
拡大部分は、対象者から見て右側の目標から左側の目標に移動する時の軌道の典型例である。

fig2.jpg fig3.jpg

図2:各区間で得られたエントロピー
条件間の変化の違いから課題の難易度による動きのエントロピーの違いが示されている。

図3:区間間で得られた相互情報量
左が高難易度条件、右が低難易度条件である。
条件間の値の大きさの違いから課題の難易度による区間間の情報処理量の違いが示されている。

論文情報

雑誌名:Entropy, 24(6), 788. (Special Issue: Entropy-Based Biomechanical Research and Its

Applications) (オンライン:2022年6月7日)

論文タイトル:Estimating Information Processing of Human Fast Continuous Tapping from

Trajectories

著者:Hiroki Murakami, Norimasa Yamada

DOI: 10.3390/e24060788

 

お問い合わせ先

●研究に関すること

山田憲政 中京大学スポーツ科学部教授

E-mail: nyamada@sass.chukyo-u.ac.jp

●その他お問い合わせ

中京大学学園事業推進部広報課

E-mail:kouhou@ml.chukyo-u.ac.jp  TEL:052-835-7135

2022/06/17

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