ブックタイトル中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

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中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

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中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

的態度を貫いた(Arendt [1963] 2006= [1969] 1994)。しかし興味深いことに、イギリスにおける議会制の発達以降、産業革命を経て現代に至る豊かな物質的生活が享受されるようになる過程で、公的領域と私的領域の区分を撹乱するような、社会的なもの(the social)という視点から人間が捉えられるようになったと、『人間の条件』(Arendt [1958] 1998=[1973]1994)において彼女は考えた。経済政策や税の徴収といった政治実務のなかで、個々の人間やその意志、意見ではなく、合算、数量化された人口や財の動向が重要視されるようになり、個人の意志や意見を飲みこんだ集合的な意見としての世論が、政党の人気や勢力を左右するものとして語られるようになった。こうした傾向は、公的生活における諸個人の毅然とした意見表明を志すアレントにとっては堕落、疎外を意味する7。実際に、歴史上、人間の集団を人口と捉え、その動向を調べるようになった時期はまさしく、イギリスにおいては、17 世紀のオリバー・クロムウェルによる宗教的指導の結果としての王政の廃止の時期であり、隣国のフランスとの国力の比較を数量的におこなう政治算術(Petty [1690] 2011=1955)として、大量の人数や富を扱う集計の技法が発展し、今日、統計と呼ばれる技術に変貌していく。したがって、ハバーマスが公共圏の確立について述べる英米仏のブルジョワ革命期は、アレントにとって、社会的なものの台頭と公的領域の堕落の時代となり、公共領域の構造転換は、ハバーマスの公共圏の発生の時点ですでに終了していた。アレントを援用しつつ英米仏のブルジョワ革命期を公共圏の確立の時代として論じること自体に、上記のような歪みが孕まれている。そして、のちにハバーマスがイギリスに発祥する市民社会(civil society. Ferguson[1767] 1980=1956)の捉え方を導入して、公共圏という語の用法を修正していくことの布石として、彼の議論にはこの歪みがはじめから内蔵されていたと考えてもよいだろう8。ハバーマスが『公共性の構造転換』(Habermas [1962] 1990=[1973]1994)で論じようとしたのは、英米仏の市民革命において成立したと考え市民社会をもたらす公共圏と社会的世界としての公共圏(鎌田) 23( 23 )