ブックタイトル中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

ページ
107/198

このページは 中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号 の電子ブックに掲載されている107ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

ればなれになり、1 人で3 人の子供の生活の責任を持ち、4 人目の妊娠、子供達も辛かったと思います。自分も周囲に頼る人がないため不安な毎日でした。春に福島に戻り出産し、生活しています。」・「8 才、5 才、4 才の子供がいて将来先がみえない健康の不安もあり後悔したくない気持ちで私も夫を残し、1 人の友達を頼りに遠く県外へ子供3 人をつれて避難をしました。・・・福島に戻って家族が1つになり心から安心しました。」・「水素爆発の前日の夜、恐怖に怯えながら、近隣の方々への後ろめたさを抱きながら山形の親せきの家へ子供たちを連れて避難した日から私たちの闘いは始まった様に思えます。山形への避難は2 週間ほどで自宅に戻りました。・・・その後、実家(仙台)への避難を希望しましたが、親戚から『放射能を持って来られては困る』と言われ、・・・11 年秋に、実家の理解と助けもあり、仙台に(実家に)避難しました。小4、小1 の息子たちを転校させ、3 年間の避難の予定でした。しかし、長男が学校でひどいいじめにあい、・・・心身症になってしまいました。本人は何とかそのまま耐えようとしましたが、病気を期に福島に戻ることにして、今現在は市内に生活しています。」・「郡山市は避難の対象ではありませんでしたが、私と夫は郡山に残り、子供は保育園をやめ、祖母と一緒に南会津へ自主避難させました。自主避難のため、もちろん自分達でアパートをさがし、毎月家賃を払い、生活に必要な家電製品を買いそろえました。しかし経済的にもムリがあり、5 カ月程で自主避難をおえました。」・「子供の為と思い、母子で避難したものの、週に1 回のペースで会いに来てくれる主人と子供が『離れたくない』と帰ることを拒む姿を見ると、放射能からのがれるためとはいえ、避難生活が本当に正しかったのか、迷いを生じます。更に、避難区域に該当しなかったため、補償も得られず、二重の生活は、本当にきつかったです。避難生活を終え、家族揃って過ごせるようになり、1 年が経過しようとしています」1,200 Fukushima Mothers Speak(成元哲・牛島佳代・松谷満) 105( 105 )