ブックタイトル中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

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中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

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中京大学現代社会学部紀要2014第8巻第1号

にほっとした気持ちがありました。秋田に来て、1 番うれしかった事は水道水を安心して使える。子供を普通に外を歩かせる事が出きたことでした。秋田は0.03、福島は0.15、室内の線量の違いに安心しました。」イ避難したが戻ってきた避難したが福島に戻ってきたとの意見がある。その原因としては、家族と離ればなれになることの不安や家計負担の増加等がある。・「原発事故後、1 ヶ月程度は子供達を長野県の親戚の元へ避難させ、私自身も職場の理解が得られた為、2 週間程度休み、一緒に避難しました。私の母にも同行してもらい、長野にて子供達と共に過ごしてもらいました。・・・学校が再開してからはやむを得ず郡山に戻りました。」・「毎日色んなことに気をつけて生活しては疲れて。子供たちがまだ小さいので、色々考えて母子避難もしました。経済的にも苦しくて、家族離ればなれというのも、とてもつらくて1 年しかできませんでした。」・「自主避難をしていたが、母子で生活していくにはお金もかかるし、子供を保育園にあげ、自分が働くことさえできなかった。他の県の人の中には、子供や私達福島から避難してきたのを良く思わない人もいた。だから福島にもどってきた」・「避難しても家計の事情で線量のある福島に戻らざる得ない事本当に子供に申し訳なく、いつも将来が不安になります。どうしたらいいのか分りません。」・「本当ならまだまだ避難して線量の低い所で過ごしたいが、経済的にも精神的にも限界。同じような状況で仕方なく避難先から戻ってきている人々がたくさんいる」・「原発事故後、子供達としばらく山形へ避難していました。家族はな104( 104 )