組織の連携から組織をはみ出す個へ
「魚の取り方」と連携

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斉藤 尚文教授

 「魚を与えるよりも、魚の釣り方を伝える」という格言がある。「貧しい人々に食べ物を与えてもきりがないが、食べ物を手に入れる方法を教えれば、自分で空腹をしのぐことができるようになる」という意味だ。インターネット上では、この格言に言及するものを数多く見出すことができ、教育・コーチング・経営・看護・福祉・開発などさまざまな領域において、「ものを与えるより、ものの作り方とか入手の仕方を教えて、『自立して生きられる』ようにすることがたいせつだ」というメッセージが、歓迎されていることがわかる。

 わたしが関わっている国際協力の領域でも、この格言はしばしば語られてきた。しかし、「医療機器の使い方をトレーニングして機器を設置したけれど活用できなかった」とか、「パソコンを使った識字教育の教材のつくり方をトレーニングした上で寄付したパソコンが数年後には使われなくなった」といった事態があいついだ。医療機器の使用・維持・管理、あるいはパソコンで作成した教材の活用に必要な他部門とのつながり、つまり連携を、創り出すことができなかったからだ。「魚の取り方」の格言に込められた「自立」というねらいが、「ひとりで」あるいは「ひとつの団体だけで」を意味すると誤解されると、それまでのひととひととのつながりを尊重しなかったり、新しい事態にふさわしいひととひととのつながりを創りだすことを軽視したり、せっかく産まれたひととひととのつながりを無にしたりする国際協力を産みだすことになる。

 では、連携は、どのようにして産まれるのだろうか?

 行政職員が高等教育機関で自らの仕事を研究した例、つまり、行政と大学(院)との連携の例としては、明石照久『自治体エスノグラフィー:地方自治体における組織変容と新たな職員像』(2002年、信山社)が、古典的であろう。明石は、「窓口の後ろに控えてクライアントとしての住民が来るのを待つスタイルから職員が地域へ出向き住民ニーズに対応していくスタイルに重点が移ろうとしており...」(p.42)と公務員の仕事の変化をとらえ、「地方自治体現場の問題解決プロセスにおいては、「決まりきったルーティンの処理」から「全体としての包括性のあるケースの処理」に重点が移りつつある」(p.245)と指摘した。近年では、愛知県職員として「あいちトリエンナーレ」に関わった吉田隆之が執筆した博士論文にもとづく『トリエンナーレはなにをめざすのか:都市型芸術祭の意義と展望』(2015年、水曜社)がある。明石の言い方を借りれば、役所のカウンターから地域へ出て、市民と共にあいちトリエンナーレに尽力した行動の成果だ。

 地域経済学の飯田泰之と対談した熊谷千葉市長は、「行政と民間の間に立つ人材が決定的に不足している...求められる人材は、行政マンすぎる人でも、ガツガツしすぎた民間の人でもなく、その間を取り持って架け橋になれる人材です」(飯田泰之他著『地域再生の失敗学』(2016年、光文社新書)p.286)、「こういう人を意識的に育てるべきなんです」(同書p.287)と述べた。

 現在、多くの自治体で、大学との連携協定が結ばれている。こうした連携を実りあるものとするには、役所のカウンターからはみだす職員、教壇から踏み出す教員が必要ということであろう。

斉藤 尚文 (さいとう ひさふみ) 中京大学 現代社会学部教授

文化人類学
東京都立大学大学院博士課程単位取得退学
1951年生まれ

2016/12/15

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